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からまわり 2007/12/15 印刷用はこちら

 からわまりをしているレコードほど、つまらぬものはありません。このお正月のことでした。バイオリンの名手エルマンが独奏するツィゴイネルワイゼンの名曲が、茶の間から聞こえていましたが、やがてスースーという単調な、からまわりの音に変りました。行ってみると案の定、針がレコードの安全溝の中を無意味にまわりつゞけています。人の心をうっとりさせる、美しい調べをもつレコードもからまわりでは何と興ざめたものかと、あらためて見直したその時に、「信心もかわまわりをしてはいけない」という、神の声を私は聞いたのです。いや、神の声を聞いたなどといえば、変な神秘的なものを連想されるおそれがありますから、もっと正確にいゝ現わすことにして、「信心もからまわりをしてはいけない」と、私の心がさとったといゝましょう。私のうちにある神がそう叫んだといってもよいのです。とにかくそれは、こう電気にでもふれたような感じで、ピリッと胸にこたえました。
 「神の声を聞こうと思えば、空吹く風の音にも神の声は聞かれる。」と金光教祖は教えられたそうですが、これは、心が神に向って居れば、時と処に応じて、天地の真理を悟ることができるということでしょう。
 私等は、信心して心が神に向っていると、しばしばこういう体験をもつものでありますがとかく雑事に心を煩らわされて、心は遠く神をはなれがちになり、したがって、空吹く風の中に神の声を聞くというような、すがすがしい、おごそかな体験をもつことがなく、むしろその反対に、うす汚れた、もやもやとした心で、夢の間に一生を送りがちであります。正月早々私の心耳にひゞいた言葉は、信心の自誡として、神さまからいたゞいたものとうけとらせてもらいました。
             ◇◇
 ところで、信心のからまわりとは、どういうことなのでしょうか。
 レコードは、吹きこんである音を正しく再現してこそ値うちがあるので、たとえ廻っていても、音の出ないからまわりでは、もはやレコードの値うちは失っています。信心をしているといっても、その生活が信心の本道から外れて、教えに基ずかないと、信心の値うちが現われませんから、レコードのからまわりと同じです。だから信心のからまわりだと、私はいゝたいのです。もっとわかりやすく言えば、朝目が覚めて、あゝ今日もまた仂かねばならぬのかと、大儀そうに起き出る。神様を拝んでも形だけで、ちっとも心がお礼やお詫びに向かない。人のことには目をつけるが、自分のことはちっとも見究めない。自分の仕事によろこんでうちこめない。不平不足やぐち腹立ちがすぐ口をついて出てくる。教会での教えの話をしみじみときく気にならぬ。仕事が忙がしいというて、お参りを怠りながら、自分の好きなことは万障くり合わして出てゆく。受けたおかげを生かして使わぬ。神さまを使うことだけ考えて、神さまの御用に立とうとせぬ。というようなことは、みな信心がからまわりをしている姿です。
 心を改めて信心のレールにのせ、自分の生活の上に美しい信心交響楽を奏でる必要があります。

<昭和31年1月31日>
灯 巻頭言集Tより抜粋

 

 
 

 
 
             

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