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新春におもう 2007/1/27 印刷用はこちら


新春におもう

 新しい年を迎えて、今年こそはと胸の中に新鮮な願いをもち、強い決意をもつのは、 誰もが経験するところである。それは正月という改った周囲の雰囲気がそうさせるの であろうか。時の流れは早い。おめでとうございますと、賀詞を交しているうちに、 夢の間に一月という月が終ろうとする頃には、人の心はいつか長い間の惰性にまいもどって、新鮮な願いの影はうすれ、張りきった決心の熱はさめている。今年こそはという願いはこうして果されぬまゝに、歳末へ向って無自覚な歩みをつづけ、大晦日の夜半、闇にひびく除夜の鐘をきいて、人はいまさらのように、改りもなくすごした一年を悔い、今度こそはとまた心に誓う。だが、初日の出と共に、高く燃えあがった心は、いつしか沈み行く夕陽とゝもに意気衰えて、心は夜の闇にも似た行方さだめぬさすらいを始める。人間の限られた生命が、こうして、なすところもなく浪費されてしまうことは、まことに惜しいかぎりである。
                ◇◇
 「皆さんおめでとう存じます。人の手本になるような信心をさせて頂かれたら結構で
ございましょう。まにあわせのことぢゃいけませんからなあ。一心のまことを以っておすがりしたら、万事みかげが頂かれまするから、そのつもりでおかげを蒙って下さい」。これは昨年十二月十日、新たに教師に補せられた人々に対して、教主金光様の下されたお言葉である。この内容は、教師の職に立つものだけに通ずるものでなく、この道の信心につながるすべての人が頂いて、仰ぎまつり副いまつらねばならぬところの、信心生活の要諦を示されたものと拝する。
  教団の現段階がどうの、教師の使命がどうのと肩肱はったお言葉は一言も仰せられてはいないが、それ等のことを認識してゆくために、欠くことのできぬ根本的な心構えを、柔らかに、しかもずばりと示されてあるのには、頭の垂れるばかりである。
 年頭に志をたて、それがもろくも崩れさって悔の終止符を歳暮のおくりものとして自ら抱く人間共通の難儀にとって、「まにあわせのことぢゃいけません」というお言葉は、なんといたいはげましの鞭であり、また尊い救いの綱であることか。
                ◇◇    
 御取次成就信心生活運動が、全教団に展開されて七年目、この運動の趣旨は、末端にまで行きわたったと信じられている。だが果してそうであろうか。なるほど、機会
あるごとに説かれまた書かれるこの運動は、視覚と聴覚の上では末端まで徹底したであろうが、教団人の何パーセントがこの運動の実践者であり、或は実践者であろうと念願しているであろうか。信心生活とは、自分なりの生活に、信心をアクセサリーとしてかざるものではない。信心が自分の生活をおしすゝめる原動力で自分なりの生活というものは、そこには存在をみとめられないのだ。もっと具体的にいうならば、神の御心に従う生活が信心生活であって、身勝手の自己流の生活をして、神を拝み教えをきいているだけでけ、似非信心生活なのである。゛まにあわせ゛は、その場ふさぎの一時的な措置であり、本物ではない。いまの難儀を助かりたいだけの信心は、信心をまことにあわせに用いているにすぎない。信心は人間の生命の正しいあり方を示す道であることをわからせてもらい、間に合せでない真の信心生活をさせてもらわねばならぬ。
  昭和三十年というこの年を、真の信心生活にあけくれして、侮なく、よろこびにみちたものとさせて頂くよう、御取次を頂くところから出発させてもらうことが必要である。

<昭和三十年二月二十日>

灯 巻頭言集Tより抜粋

 
 


 

 
             

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