北の道分(2)

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函館教会の布教40年記念祭が奉仕されたのは、昭和6年9月13日で、その盛儀は空前のものであった。祭典後親教会長杉田恒次郎先生を主賓に盛大な祝賀会が催され、亀田教会からは、初代矢代先生のご布教を、琵琶歌に作詞し、信者の富樫旭流氏が作曲して奉納演奏をし、喝采を博した。

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北海道での金光教の布教は、初代函館教会長矢代幸次郎先生によって初めて行われた。だから北海道布教の開祖と仰がれている。年毎に年は逝き、そして新しい年が巡りくる中に、人の世の歴史は積重ねられてゆくが、その歴史の頁の中で不朽の光を放って人の心に迫り、深い感動を与えてやまぬものは、その人のうちたてた功績よりも、その内側にあるその人の心の光・徳の輝きである。

先生が京都から函館に渡られたのは、明治24年9月11日だった。そして13日に、蓬来町の借家にはじめてご神璽を奉斎され、以後33年間に渉って、先生は倦むことなく道を解きあかされ、生神金光大神取次の道の比礼はあらゆる難儀に、喘ぎ苦しむ人々の上に輝きわたったのである。密林を伐りひらいて田畑を開墾する、開拓農民の生活の困苦は苛烈そのものといわれるが、布教開拓の苦労がそれとは異なった意味で、重く烈してく先生に迫ったことは、いうまでもない。

然し先生は、その重圧をも、ものの数ともなさらなかった。却ってその勇気その信念をますます高揚されて、お取次ぎ一筋に専念され、こうして先生によって救われた人々の中から、先生のみあとに従って、この道の布教に一身をささげる門流が輩出し、道内各地に教会は設けられ、布教開拓の基礎は確立したのである。金光教団の布教史の上に、不朽の教績をうちたてられた先生の御徳は、どれほどたたえ奉っても、足りるということはないと言えよう。

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元町の高台に佇んで、港を見下ろせば先生の上陸なさった旧桟橋が目にはいる。初秋の空にはくる年もくる年も、白雲がうかび流れてゆく。80余年の昔、その空の下で函館に第一歩をしるされた、35才の先生のお姿を偲び奉れば感慨は無量である。潮見町の高台に足をとめて、眼下にひろがる町並を見わたせば、蓬萊町の一茅屋ではげしい布教意欲にもえて祈られたお姿が想像されて、懐かしさは限りもない。

北海道において、この道に生かされるものとして、先生をたたえまつることに、もっともっと心をひそむべきであり、そのお徳にむくいまつることに、深く深く心をくだくべきだと、初秋の灯下に私はおもうのである。

<昭和48年10月5日>