現実のきびしさ

 春はまだ浅く、寒さが身にしみる四月の宵静かにもえるストーブを囲んで、「映画と懇談の夕」を開くこととなり、十六ミリの「六人の姉妹」を映写した。「灯」の集いである。

 

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この映画は、ある会社の課長と妻、六人の娘たちを含む家庭生活を、極めてリアルに描写している。「女の子が大学へ進む必要はない」と、頑固に拒む父とその無理解に抵抗してアルバイトをしても進学すると力む長女との対立に、男の子を産めなかった妻の心の空しさや、小さい娘たちそれぞれの身勝手な言い分が重なり合い、不快な家庭状態となるのだが、やがて進学をゆるす父の寛容な心で、切詰めねばならぬ家庭状況を知った長女の反省、小さい娘たちの病む母へのおもいやりなどから、家庭の心が一つにとけあい、長女の大学入学で、ハッピーエンドとなるこの画面には、どこでもいつでも、誰もが身近かに見られるような情景が展開して、ほゝえみを誘われ、また感動を催し、さらに人間関係のあるべき姿を、仄かに示唆していることを感じさせられる。

 映写が終わった後、この映画が表現する普遍性の中から、現実生活への反省を感じとり、信心の進展に役立たせたいという趣旨から、意見発表や批評が行われた。

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自分の立場だけを主張し、他の立場を顧みようとせぬ利己的なまた、感情的な生き方は他を傷つけ、また自分を含めて家庭ぐるみを、暗い谷間におとし入れる危険を内臓する。だから「あいよかけよで立ち行く」ことを教える我道の立前を、改めてこの映画から感じとって、実生活の面に実践すべきだと言う会員の批評は、信心と生活の関連に於てよく核心をつかんだ発言といえよう。

 だが、ここで考えねばならぬことは、批評は簡単だが、実践は単なる思いつきや、安易な心ではむつかしいということである。

信心はその本質として、観念や言葉の遊戯だけに終わることをゆるされない。信心は日常生活の一切にわたって、じかにつながるものであって、実践の意欲もなく、また実践を伴わぬ信心は、無価値であり無意味でもある。

 しかし、実生活に於ては身近をとりまく種々の問題について、どれだけ信心をもって対処されているだろうか。

 たとえ、実践されているとしてもたやすくハッピーエンドに到達するよりは、到達できぬ困難に、苦渋のおもいを重ねる方がはるかに多いのではあるまいか。

 神様にお願いさえしておれば、うまくゆくというような、安易な考え方だけでは解決できぬ困難を思い知らされているのではあるまいか。だが、困難を突破することに真の仕合せはあり得ない。

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 現実のきびしさとは、現実の問題そのもののむつかしさだけでなく、そのむつかしさにとりくむ人の心が、よい加減であることを許されぬほど、きびしいものだという意味である。この思いが定め定まれば、信心の実践は感情の波にもゆられず、正しい信念にもとずいて、どのような困難をも乗越え、逞しい歩みを進めるだろう。そこに真の救いが約束されることを、ふかく心に刻むべきではないだろうか。

<昭和37年5月5日>