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助かる道 2008/3/12 印刷用はこちら

 金光教では、人間が生れながらにして罪の子であるという教義は、どこにも見出すことができません。その反対に、人間は神の氏子、即ちうちの子、愛し子であるということが、随処に説かれているのです。罪の子として、神の憎しみをうける立場と、かあゆい我が子として、限りない愛情を以て迎えられるのとでは、そこに非常なちがいのあることがわかります。世間では、宗教といえばどれも同じように、漠然と考えている人が多いようですが、実は決してそういう単純なものではないこと、その教えの差によって、信心にも根本的なちがいが出てくることはいうまでもありません。金光教祖の信仰は、初め世俗的な神仏を尊むところから始まり、特に当時の人心を支配し、人間生活の幸、不幸と深いつながりをもつところの、たゝりさわりの神といわれた金神への畏敬となり、さらに42 才の大患を境としてその神の中に、たゝリ障りと反対の愛のはたらきを認められるにいたり、次第に飛躍して遂に天地の親神としての天地金乃神の信心に到達なさいました。「神を怖れてはいけない神に近寄るようにせよ」とか「神と氏子が仲良くする信心である」などゝ教えていられるお言葉の中にも、神の限りない愛の仂きに対する教祖御自身の実感が感じられます。
          ◇◇
ところで、我々が信心して助かるということについては、どのようなことが必要でしょうか。自分は神の愛児であるからと、のんびり構えていてそれで肋かってゆくものでしようか。
 神様は愛そのものであるからといって、人間がその愛に甘えて、我情我欲にとらわれた生活をつゞけて、何の反省もないというようなことでそれで真に助かってゆくものでしようか。そういう人間を、神様はかわいゝものぢゃとよろこんで下さるものでしょうか。人間を生れながらの罪の子と見る教義でないからといって、自分は罪の子ではないと、大手をふって歩くような気持でいて、それでよいものでしようか。
          ◇◇
 信心して助かる為には、罪の意識ということが大切なのです。法的な罪を犯さねば罪人でないという考え方は、信心のない人のあさはかな考え方です。信心する人の立場では、信心が進めば進むほど、自分の不行届、いたらなさに目覚めて来るものです。
自分ほど罪深いものはない自分ほど屑の子はないと、深く頭を垂れ、謙虚な気持で詫びずにいられぬようになるものです。単に神様を拝むだけの信心では、こういう心境になれぬばかりか、思う通りにならねば逆に神様を恨んだり、信心してもつまらぬなどと考えるのが落ちです。
  かように、信心して助かる道として、罪の意識にめざめて自分の至らなさに痛烈な心の痛みを覚えることが必要ですが、しかしこのために自分に絶望し、自分のようなものは到底だめだと自分から神様の救いの手を放すのは誤りです。「無信心者ほど神は可愛いゝ信心しておかげをうけてくれよ」と、限りない慈愛を以て待ち給う神の御心を深く思い、至らぬ自分を深くお詫び申しあげつゝ、一筋に神様におすがりをし、他面自分の不行届、至らなさを改めてこれを生活の上に現わすのが、この道に於て助かってゆく筋道です。いかに不行届でも、その罪のために地獄へ追いおとされる、この道ではありません。お詫びと改りによって、神の愛の手に抱かれ救われるのが、この道の信心なのです。

<昭和31年7月23日>
灯 巻頭言集Tより抜粋

 

 
 

 
 
             

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