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ありがたいということ 2007/7/31 印刷用はこちら


ありがたいということ

 感謝の思いは、ありがたいという言葉となって現れるものだが、本当にありがたい
と、純粋に言える人はすくない。
  それは、感謝よりも不足のおもいが多かったり、感謝せねばならぬ点に気がつかぬからで、それも人間が底なしと言ってもよいほどの、深い欲望に追いたてられているせいだと、言えるのではあるまいか。
  人間は欲がなければ生きられはしない。では欲にしがみついていればよいのかといえば、欲ばかりしていると、しまいには欲で身をほろぼすようなことにもなる。
  欲をしても立ちゆかぬし、欲がなければ生きられぬということは人間が生きてゆ
く上の大きな問題である。そこで欲にも、してもよい欲、していけない欲があることを
さとらなければ、よい生き方はできぬものだということを、知る必要がある。
  金光教でいう「おかげ」という言葉は、その内容がとても深くいろいろの意味をも
つものだが、一般には神の力にすがって、不幸から救ってもらうことと解されている。
これだけでは、わが国で昔からいわれる、「神佛のごりやく」と同じ意味になる。
  こういう意味の「おかげ」だけを求めるのならば、あえて金光教の信心はしなくて
もよい。なぜならば、この道でいう信心とは神を自分の願望を叶えるために利用する
のでなくて、逆に神の心に従う生き方をすることともいえるし、自分の中にある神の
心をひきだすことともいえる。また、自分の願いの元になっている欲をしらべて、よ
い欲か、まちがった欲かをみわけ、願いそのものを整理することともいえるからだ。
  もちろん信心には段階があり、はじめはひたすら自分の困っているところを救って
もらいたいと思う。つまり神を利用するようなところがある。これを頭からけなし、
責めるわけにはゆかぬ。人間はとかくそういう生き方になりがちな傾向が強いからだ
が、決してそのままでよいのではない。自分の手もとをしらべず、困ることになった
元もわからずに、がむしゃらに、困らぬ楽なことになりたいと願い、自分の都合よく
なることだけが、おかげと思うようでは、それは信心でなくて欲にふりまわされてい
るにすぎない。
  信心して、欲の整理ができ感謝すべきこと、よろこぶべきことがわかり、有難いと
いう言葉が、胸の奥底から出るようになれば、信心によって救われたといえよう。
  故矢代先生を病床にお見舞いした時のことである。死は日時の問題と察せられる病状の中だった。目をさまされた先生は、定まらぬ瞳をこらして私をみつめていられた
が、やがて「おかげで、ありがたいです」とポツンとおっしゃった。切ない想いで先
生をみつめる私の胸に、それは深くじーんとひびいた。深い深い、底しれぬ水の中か
らひびく声のように感じられたのは、その言葉が先生の心の奥底に堪えられた思いだ
からと悟って、ひとり私はうなづいた。半歳にわたる重患も先生の心まで蝕むことは
できなかったのだ。
  ありがたいという心にみちて亡くなった先生は、身をもって神を信じ、神のおかげ
を悟っていられたのだと、今更に仰がれる。
  頭や口先の信心では、この信境には達し得られぬ。
                                  <昭和41年9月15日>

灯 巻頭言集Uより抜粋

 
 


 

 
             

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