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闇 2007/4/2 印刷用はこちら

 

 明るい電燈の下で、一家が楽しい夕食を始めようとしている時、停電で俄かにまっくらやみとなる。いまにつくだろうと、箸をとらずに待っていると、こんな時に限って皮肉にも、なかなか電灯はともらない。仕方なくローソクを持ち出して、闇の中で黄色にゆらぐかぼそい焔の光りをたよりに箸をとる。
 せっかくの料理の味も、一向味覚にピンと来ない。味気ないという言葉が、これほどピタリとあてはまった感じはあるまいと思われることですが、こんな時ローソクがあればまだしものこと、あいにく使い果して手持ちがなかったとしたら、どうでしょう。食事も出来ずにあてもなく、いまかいまかと光を求めて待ちつくす気持は、なんともいわれぬいらだたしさです。だがやがてパッと電灯がともった時の心のはなやぎは、得もいわれぬよろこびを宿しています。こういうところから考えてみると闇のつらさも知ったものが、ほんとうに光のありがたさをわかるのだと、いえるでしょう。
      ◇◇
 金光教祖の御理解に「信心なければ世界は闇なり」と教えられていますが、これをいゝかえると、「人間社会は信心によって明るい楽しい住みよいものになるが、信心がなければ、くらがりを手探りで歩くようなもので、いつどこでつまづいてけがをするやらわからぬ、まことに不安きわまりないものである。」とおっしゃつていられるのでしょう。私共は信心をさせていたゞいて、誰も皆一応は、信心はありがたいものだと心得顔で暮らしております。しかし果してほんとうに信心がそれほどありがたい、尊い、なくてはならぬもの、生きているこの命の一番目に大切なものと、腹のどん底にシャンと確信しているでしょうか。教祖は、信心を、万物の命を保つのになくなてはならぬあの太陽のように考えていらっしゃるのですが、多くの人々は、信心を、停電時にともすローソクの程度に考えていやしないでしょうか。太陽は私共が生きるためには、どうしてもなくてはならぬものですが、ローソクはなければなくともすむのです。
 「信心はあなたにとって、どうしてもなくてはならぬものですが、それともなければなくてもよいのですか。」と、正面きって問いつめられた時、よくよく考えてみると、それほど大切なものと思っているかどうか、われながらあやふやに思えるのではないでしょうか。大切なといえば、金のほうが大切、着物が大切、地位が大切、あゝしたいこうしたいという自分の慾の方がもっと大切と考えていないでしょうか。だとすれば、信心はそれほど大切に扱われていないわけです。なるほど生きるためには、金も必要、名誉や地位も必要、健康も大切ではありますが、それらのものに本当に生きた仂きをさせる力が信仰なのです。それらのものは、信仰に支えられて、初めて本当のねうちを現すのです。けれどもこゝの所が、なかなか分からずに、あさはかな人心で支えているうちに、色々な不幸を作り出します。これは闇の中を手探りで歩いている様なものですから、つまづいて怪我をするのが当然なのです。つまづいて始めて気がつくのは、闇のつらさを味わって、始めて光のありがたさを知る。人間のあさはかさといえるでしょう。だが、転ばぬ先に闇をぬけ出すこともできる人間だと、知ることが大切です。

<昭和31年2月23日>
灯 巻頭言集Tより抜粋

 

 
 

 
 
             

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