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心 2007/4/2 印刷用はこちら

 

  碧く澄んだものそれは海だ
  しかしそれよりも広いものがある
  それは空だ
  しかしそれよりもまだ広いものがある。
  それは人の心だ
 これは、俳優の森繁久弥氏が、最近、追分で名高い江差のかもめ島灯台の子供等へ、菓子折りに添えて贈った詩である。
 森繁氏は去年の夏、神奈川県の葉山から、兵庫県の西宮まで、往復帆走を試み、その時、遠く海上山間に聳える灯台から、光を与えられたことに、深い感動をうけ、灯台巡視船に托して、ひろく灯台守とその家族の人々に、感謝の心を現したのだという。市井の片隅に行われたさゝやかな出来事にすぎないが、美しい話であり、特に最後の詩句には、心ひかれるのを覚える。
      ◇◇
 人の心は、もともと善であるとか、悪であるとか、いろいろと考えられている。金光教祖の教えられる信心の立場では、これをどう考えているのだろうか。
 人は神の子であるから、神の心を具えて生れて来るものであり、従って、広く、貴く、清く、美しいものであるが、人間としての生命をうけた瞬間から、生れ出るまでの母体の影響や、生れ出たあとの環境の作用をうけて、本来の姿を失って、大方の人の心は、狭く、卑しく、汚れた、醜いものに変貌していると見るのであって、信心こそは、これを本来の姿にかえす作用をするものと教えるのである。
      ◇◇
 ところで、信奉者という名をもつ人々の、現実の信心は、神の心にかえることを目標としているだろうか。それとも、境遇上、経済上、肉体上のなやみを解決する手段方法と考えているだろうか。人間生活上の上では、病気や貧乏や、災難など、それ自体は決して好ましいものではない。しかも、これ等は神の子としての人間生活の完成に障碍となることでもある。従って、神は、人間の当面する現実の不幸の上に、救いの手をさしのべて、おかげを現わし給うのだが、神の救いの心と救われる人間の心には、悲しいかな統一性の失われている場合が多いのではないか。それは“親の心子知らず”の姿となって現れる。
 人はたゞ、当面の苦しみを逃れるためにのみ信心を求め、神を人間の幸福のために利用するだけに終わりやすいことを、恥じねばならぬ。
      ◇◇
 この道でいう生神とは、人間本来の心に返ることであり、そのために必要な信心である以上、現実の難儀を、おかげによって免れようとする前に、先ず、こゝろの姿を深く省る生活態度が必要ではないか。
 広く自由な心のはたらきは、個人の生活だけでなく、対社会の生活にも光を与え、限りない仕合せをうみ出すが、狭くかたくなゝ心は自分をも人をも暗黒の世界に導くだけである。現在教団で、やかましく叫ばれている、御取次成就信心生活運動の要目は、いいかえるならば、人間本来の神の心に立ちかえろうとする純粋な信心の設計図といえよう。我々はもっと“こころ”に目を注ぐべきだ。

 

<昭和35年8月30日>
灯 巻頭言集Tより抜粋

 

 
 

 
 
             

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