大祭とは

 

4月の本部広前の大祭を始めとして、各地の教会で、それぞれに大祭が奉仕される。

大祭とはどういうお祭りなのか。毎年どの教会でも、このことは説きあかされているのだが、はたして信者の末端までよくこの意味がゆきわたって、理解されているだろうか。どうもそう思われぬふしが多い。

大祭というのは、月次(つきなみ)のお祭り(今日の月例祭)に比べて内容が立派だ。お供えものをたくさん飾り、正装した先生方がご神前に大勢並んで、荘厳に奉仕される。直会も盛大だなどと、形式の方に重点をおいて、大きなお祭りと小さなお祭りの区別をつける程度のわかり方が多いのではないか。

勿論形式の上からいえば、そういうこともいえるのだが、たゞ形式をそろえれば、それで大祭といえるものではない。そういう形式が整えられるまでに、そのもう1つ前の問題がある。これが欠けては、形はどんなに立派に整っても、本当の大祭というわけにはゆかぬ。

そのもう1つの問題というのは、どういうことなのか。それは御礼の心である。第1に、1年の間いたゞいて来たところの、おかげを深くさとって、つゝしんでお礼を申しあげる心を整え、その上で年一度の御大祭を奉仕させて頂くことにならねばならぬ。

人間は真に勝手なもので、困った時、神さまに助けて頂いたことはとかく忘れやすく、お礼のお届けをすれば、それでもうお礼はすんだぐらいに考える。身にしみじみとわかる目に見えるおかげすら、こうなのだから目に見えぬ深い神さまのお計らいなどは、どれほど頂いても、そうとは知らず分からずじまいになってしまいやすい。こゝを静かにかえりみ、分からせてもらわねばならぬ。そして、有難いことである勿体ないことである。どのようにしてお礼を申しあげたらよいであろうかと、わが胸に問うてみる、そんな姿勢が必要なのだ。

第2には、教会で行われる大祭であるから、これは先生のお祭りで先生がお礼をすればそれでよい、というものではない。先生も信者も共々に一体となって、奉仕させて頂くのが、この道のお祭りである。一体といっても、そこにはおのずから差別がある。先生は先生の立場で、総代は総代、役員は役員、一般信者は信者の立場で、自分のお礼を具体的にどう現わすかを決める。それも自分の力でするのでなく、してもあげるでもない。

神様にお願いしておかげをうけて、お礼をさせて頂くのである。こうして祭典準備、酒掃、お供え、教友との連絡、直会、その他大祭関係すべてのご用に、各自のお礼心が現わされて清く美わしく有難く奉仕されてこと、真の大祭である。大祭の通知をもらって、年1度の大祭だからまあ参っておこうか、という位なことでは思いが足りぬ。

第3に、御礼の心は祭典の上だけでなく、各自の胸の中で、自分自身をうごかす力となて働かねばならぬ。即ち大祭を境に自分の信心を益々よい信心に進め、おかげをうけてこれを人に伝え、人を助けてゆくのである。

これが神も助かり氏子も立行くことになり、神様への真のお礼となるのである。

<昭和40年5月25日>