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合格への道 2006/12/24


合格への道

 受験生の前に、がっちりと立ちはだかる入学試験ほど、本人はもちろん親の心をまで傷ましめるものはあるまい。入試には、誰でもが合格の栄冠を望むのだが、何パーセントかは必ず不合格の烙印のもとに、失望と悲歎の運命に追いやられる。しかもその悲運が、自分の上に訪れないと誰がいゝ切れよう。こゝに不安がある。この不安によびかけて、何万円かを献納をすれば、入学が叶えられると説く宗教があるそうだが、これが正しいかどうかは、良識の判断に侯つとして、金で解決をつけるのならば、宗教にたよるまでもない社会の現況である。だがそれは富める者のみの特技であって、大衆の歩み得る道ではない。
  大衆は、深夜他家の名札を剥して、合格のお守りとするまじないの類に、はかない安心を求めたり、御利益本位の信仰にすがろうとするのだ。
では、合格を神に祈るのは、誤りであろうか。単に合格の利益を求めるだけの祈りならば、誤りである。何故ならば、学力の十分なもののみが、合格の資格をもつのであって、裏返していえば合格に値する学力のないものが、功利的に祈っても合格は難しく仮に神を祈りさえすれば合格するとしたら、勉学の努力などは不必要となる。こんな不合理があり得ぬことはいうまでもないからだ。では優秀な頭さえあれば、入試の門を必ず突破できるか。必ずそうとは限らない。合格の条件は頭だけではない。いか
に優れた人でも、緊張しすぎて度忘れすることもあろう。神経質や小胆のために、アガッでしまえば、平素の力の半分も出ぬことになる。生きている以上、試験当日発病せぬとはいゝされぬ。受験場えの途中不慮の事故に会えば、出席不可能ともなる。かような悪条件が生ずれば、いかに頭のよい者も合格はできないのだ。こう考えると、試験と、神への祈りの関係が、どのようなものであるべきかが明かになるだろう。合格を祈りさえすれば、どんな鈍才も八口格すると考えるのが誤りであると共に、頭がよければ、神に祈る必要がないと思うのも、傲慢な思い上りと気付かねばならぬ。「ローマは一日にして成らず」という。合格の栄冠の為には、不断の勉学、実力の養成が必要で、信心するものだけが、この法則の外におかれると考えたら間違いである。或る七目年信徒は「カンニングで試験をパスしている級友が多いですが、それでは実力でありませんし、卒業後入社試験に落ちてる実例があるので、僕は実力主義で勉強しています」と語っていた。ごまかしや、一時逃れで、うまくやろうというのは、信心的
な者え方ではない。少年少女会員の数名は、試験の度に「どうか実力を発揮させて項けますように」と取次を乞い、終っては、成績表を持参してその結果をお結界に届出て、更に勉学への努力を続けているが、これこそは医しい祈りの姿といゝ得よう。
  正しい信心は、人間に力の限界をさとらせ、神の無限の愛と厳かな天地の法則を自覚させる。受験のことは、信心の中の一つの問題であって、信心によって処理されねばならぬ。正しい信心がわかれば、白然まじめに努めずにはいられなくなるものなのだ。そしてその真面目さの中にこそ、神のみかげば現はれるのである。
                          昭和三十二年三月三十一日
                          灯 巻頭言集Tより抜粋

 
 


 

 
             

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